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【アラベスク】  第2章 真紅の若葉



第2節 丘の上の貴公子 [17]




 少し彫りの深い、日本人らしからぬ容姿。
 瑠駆真はそれを、嬉しいと思ったことはない。

 卑怯者っ!

 耳の奥が、ジンッと響いた。同時に唇が、焼けるように熱い。
 あの頃の僕だったら、あんなコトはできなかった。
 触れた時の瞬間が蘇り、熱は全身を駆け巡る。

 全校生徒の目の前で、君にキスをしてしまうなんて――――

 瑠駆真は、後悔などしてはいない。むしろ思い出すたびに、嬉しさが湧き上がる。
 だが、そうやって舞い上がっているのは、きっと瑠駆真だけなのだろう。この想いは美鶴に、まったく伝わってはいないようだ。

 卑怯者っ!

 僕を変えた一言。
 僕を変えてくれた君。

 君は、そんな人じゃあないはずだ。
 今度は僕が、変えてあげたい。元に戻してあげたい。
 なのに君は、わかってくれない。

 僕が、こんなに想っているのに―――

 瑠駆真は強く瞳を閉じ、そしてゆっくりと開いた。
 彼女が再び笑ってくれるなら、どんなことでもしてあげたい。
 手に握りしめていたコードレスの受話器に視線を落とし、登録された電話番号をコールする。
 繋がるまでに数秒。やがて、二回コールで相手が出る。
「ルクマッ?」
 少し上擦った声。
「……そうだよ。よく、わかったな」
「番号が出るんだ。珍しいな、そっちからかけてくれるなんて。嬉しいよ」
 嬉しいよ、という言葉に、思わず口をギュッと引き締める。
 外国人訛りの強い日本語で、相手の男性は言葉を続ける。
「どうしたんだ?」
 瑠駆真は一度大きく息を吸い、ゆっくりと言葉を吐いた。
「お願いがあるんだ」
 そうして再び窓ガラスを、そこに映る己の姿を見つめる。
 その姿に、もっと年上の、落ち着きを備えた青年の姿が重なった。
 負けるワケにはいかない
 そう思ってしまって、思わず苦笑した。

 ―――張り合おうとしている。

 相手は、争うつもりはないと言っている。その気もないと言っている。
 だが、それでも瑠駆真は意識してしまう。
 自分は、劣っていると思う。遅れていると思う。金本聡に対しても、霞流慎二に対しても――――
「どうしたんだ?」
 沈黙してしまった瑠駆真を怪訝に思い、相手は遠慮がちに声をかける。瑠駆真は、もう一度息を吸った。





 張り合うつもりも、争うつもりもない。

 ゆったりと革張りの椅子に身を預け、窓ガラスの向こうを眺める。霞流慎二は、フッと笑った。
 背後のノックにも、顔は向けない。
「木崎です」
「入れよ」
 慎二の言葉に間を置かず、老人が扉を開けた。
「どうした?」
「今晩は、外出なさらないのですか?」
 その言葉に、慎二はまた笑う。それは、どこか自嘲めいていて、その表情に(かげ)りすら落す。
「はっきり聞くんだな。まぁお前は昔から、遠慮って言葉を知らないけどね」
「ありがとうございます」
 嫌味を込めて(うやうや)しく頭を下げる。もう子供の頃から(かしず)いてきた主人に対して、それは嫌味としか言うまい。
 慎二は、礼を言われて椅子をグルリと回す。
「こんな時間においでなさるのを知ったら、智論(ちさと)様はさぞかし驚かれるでしょうね」
「知らせたのか?」
 慎二の瞳が、すばやく動く。
「まさか」
 木崎はゆるく首を振る。
「別段、伝える必要もございませんからね。それとも?」
 口元が少し、揺れる。
「お知らせした方がよろしかったですか?」
「別に言ってもかまわない」
 珍しく強気に出る相手に、木崎は頬を緩める。
 本当に、珍しい
 だが心内は吐露することなく、木崎はあくまでゆったりと答える。
「私をそのような人間だとお思いですか?」
「いい加減、その気取った言葉遣いは辞めろ。気色の悪い」
「それは慎二様も同じでしょう」
 間髪入れない。
「昼間はずいぶんと紳士的でしたね。いや、昨晩からと言った方がよろしいですかな? それこそ智論様がご覧になったら、即倒(そくとう)なさるかも」
「何が言いたい?」
 まわりくどい相手に多少苛々した様子で、ジロリと睨む。
「何が?」
 惚ける相手に、苛立ちは増す。もはや笑う余裕すらもなく相手へ鋭い視線を投げる慎二を、木崎はしっかりと受け止めた。
 年の功か? 主従関係であろうと、今は木崎に()があるようだ。
 しばし沈黙。我慢しきれず口を開いたのは、やはり慎二。
「あの親子、特に娘の方には世話になっている。彼女のお陰で、朝夕の駅舎の施錠から開放された。彼女の恩恵を一番強く受けているのは、お前じゃないのか?」
「ごもっとも」
「だったら、困っている彼女に手を差し伸べるのは、おかしなことか?」
「おかしくはございません。(いささ)か度が過ぎているようにも思えますが、慎二様のなさったことに、間違いはないと思っております」
「それなら、何が不満だ?」
「不満なのではありません。不思議なだけです。慎二様が、女性に対してあれ程までに優しく接する方だとは、思いませんでした」
 その時間はごく刹那。二人の視線が火花を散らす。
 いや正確には、慎二の鋭い視線を、木崎が真正面から受けただけ。
「何が言いたい?」
「それは、ご自身が一番お分かりのはずです」
「わからないな」
 意地の悪い言葉に、木崎は俯いて真顔に影を落した。
「母親の方は些か問題もあるようですが、娘の方は普通の高校生のようです」
「そのようだな」
「慎二様がお相手をされるような方ではありますまい」
 ………
「お金を出して買われるような相手ではありません。そのような扱いをしてはいけない」
「俺は、金で女を買った覚えはない」
 向けられた視線は、(うつ)けのような先ほどまでのとは比べ物にならないほど、強い。
 木崎はチラリと視線を受け止め、再び俯いて唇を噛んだ。







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